【論考】#13 農産物の”規格”は本当に重要なのでしょうか。

農業

品質やサイズによって分けられる農産物の「規格」。

果たして規格は消費者や生産者にとってどれほど必要なものなのでしょうか。
規格は本当に重要なものなのでしょうか。
SNSで少し話題になっていたので、僭越ながら私見の述懐を試みます。

前提

最初に留意しておかなければならないのは、規格というルールの恩恵を消費者が受けているいないに関わらず、彼らは基本的に「より安く、かつ良いモノ」を購買するということだと思います。生産者である私自身も、品質が同じならばより安いものを選びます。

さて、実際のところ。消費者は農産物の「規格」の重要性など知ったことではありません。今般の規格外ビジネスの跋扈によって、規格の内外があるという概念程度は認識していても、規格を決定する具体的なルール等について知る一般の方は皆無と言っても良いでしょう。

消費者は規格なんて気にしていない!ではなく、そもそも規格なんて知る機会がないので至極当たり前のことですね。

だとしてもスーパーに行けば同じサイズ、同じ品質のものが一律の価格で売られているのは、ひとえに「規格」の存在があってこそなのです。国産農産物の揃いの良さは、時として不自然さを感じる人さえいるのも分からなくはありません。
ここで言いたいのは、如何に「規格」について知識がなくとも、その恩恵を消費者は確かに受けているということなのです。

さて、今回は「現行の規格を見直し、今後を見据えたルールを敷設すべきだ」という主張を目にしたので深掘りしていきましょう。

主張の論旨は、正品やA級品、秀品といった「最も品質の優れるもの」と比してのB級品との境界があまりにも厳しいというもの。具体的には

・見た目が悪いだけで味は同じ
・A級品同様、手間暇をかけて育てた野菜
・海外では規格外も正規の値段が付く国もある
・物価高、肥料の高騰、災害の頻発、農家不足、食糧不足である日本

といったもの。上記の事情から規格を緩和してA級品の範囲を広げて流通させた方が良い!という主張です。

A品でなくとも見た目が悪いだけで味は同じ?

規格外農産物ビジネスでは必ずと言って良いほど見るフレーズですね。これ、農家が口にしたらダメだと思っています。大抵の農産物は見た目が綺麗なほど食味も良いもの。

特に形が悪いというのは作物が順調に生育できなかった証ですので、味に変化がないというのは無理があります。極端に小さかったり大きかったりしても食味は悪くなります。農作物にも「食べごろ」があり、その前やそれを過ぎれば味は落ちてしまいます。

左は4玉(4kg)、右は9玉(500g)。これもA品規格

さて、そうは言ってもです。消費者からすればそれらによる「食味」の変化はそこまで大きな差異とは感じられないことも多々あるようで、私も変化については一般の方より感じとれるものの、食えたものではないというレベルのB級品や規格外品と遭遇するのはさほど多くありません。

少し味が薄かったり、繊維がこわばって固かったりしますがまあ普通に食べられるな、というのがほとんどです。

規格を緩和したらどうなる?

実際に規格が緩和されるとどうなるでしょう?消費者サイドから考えてみます。

単純にそれまで市場に流通していなかった分の農産物が規格の緩和によってスーパー等に並ぶようになります。流通の絶対量が増加するため価格は安くなります。短期的には確かにメリットしかありません。

なんだ、なら消費者に取ってより安いB・C級品や規格外の農産物をもっと流通してくれても良いじゃないかとなります。だからこそ規格を再検討、緩和しようという生産者のポストに消費者は礼賛するのです。良いものがより安く手に入るからというシンプルな理由。

しかしそこには消費者からは見えにくい大きなデメリットがいくつもあります。そしてこれは生産者だけでなく消費者、双方をつなぐ流通過程にも影響を及ぼします。
規格緩和に消費者が賛成する一方、事情を知る生産者がこぞって難色を示したのは彼らがそのデメリットを理解していたからに他なりません。

規格の緩和によるデメリット

規格の緩和によるデメリットは次の通り。

・流通の絶対量が増えるため需要と供給のバランスが崩れ価格が下落する

 価格が低下するのは消費者に取って良いものでも、生産者に取っては所得の減少を意味します。日本の総人口は年々減少しており、今後もその傾向は続きます。国民の胃袋は着実に減っていく状況で、農作物の流通量を増やしても供給過剰となり在庫がダブつくだけです。

・流通の絶対量と消費量が比例しないためフードロスが増加し、A品の価値が下がる

 増加した流通量の余剰分がデッドストック(不良在庫)になればまだ良いのですが、農産物は日持ちしないので結果的に廃棄(フードロス)を増やしてしまいます。それも、消費者に形が悪くても味は同じだからという認識がある場合安いB・C・規格外品が売れ、捨てられるのがA品という事態にもなりかねません。規格が緩くなればなるほど、A品の価値は下がってしまいます。

・A品の価値が下がるため、生産者の栽培技術向上意欲を削ぐ

 最高品質であるA品の価値が下がるため、生産者が高品質な農産物を栽培する理由が希薄になります。もう一度述べますが、肥培管理や病害虫防除によって健全に成育した農産物の方が往々にして食味に優れます。様々な生理障害が発現し、虫に食われ病気に侵され、収穫適期の外れた農産物がA品にかなうはずはないのです。ないのですが、それらの境界が朧げな状況では高いクオリティを求めるインセンティブはありません。一級品が一級品として評価されないという事態。

・品質が揃わない為輸送コスト、管理コストが増加、ロスも増加する

 例えばキュウリの場合、しばしば程よい大きさで真っ直ぐのものがA品としての価値を持ち、大きすぎたり曲がったりして形の悪いものがB品とされています。この境界が緩和されると、真っ直ぐなキュウリが段ボール箱に理路整然と収まる一方、曲がったものや大きさの不揃いなものは選果の効率も悪く、箱の容積を十分に活かせないため結果的に輸送コストが増加します。

友人から送られてきたキュウリ。圧巻の美しさ。

また、形の悪いものや不揃いのものは最高品質のものより日持ちしない傾向にあります。その為管理コストが増加し、流通に乗せた場合のフードロスが増加する可能性を否定できません。

・各コストの上昇分によって売価が上がり、結果的に消費者が損をする

 流通量の増加に消費の増加が追いつかずロスが増え、輸送効率が下がり、管理コストも余計にかかるため、各コストの上昇分を価格に転嫁する必要があります。最悪のパターンは、規格を緩和したばかりに農作物全体の品質が落ちるも、価格は据え置きになってしまう事態です。誰も得しません。

地産地消が基本である産直での販売においてはこれらのコストを比較的抑えることができると考えられます。但しこれはあくまで個人の持ち寄りで形成される売り場であるからで、競争の激しい場所で品質を落とすのは生産者自身の首を絞めかねません。

規格は消費者に対する品質の担保

A品の価値が下がることで生産者の栽培技術向上意欲を削ぐと前述しましたが、これは見方を変えれば栽培技術の確立していない未熟な農家であっても、生産物を歩留り良く流通に乗せられるということを意味します。他方、高い技術を持つ農家はその地位から引き摺り下ろされる構図と言っても良いでしょう。

これにより1番影響を受けるのは物流と小売で、輸送・管理コストが余分にかかる上農産物全体としての価値は下がっている状況。消費者からのクレームも増えないとは限りません。

品質とサイズを揃えることが至上命題

農業が産業の一部であり、物流に乗って小売される以上は商品(農産物)が一律の品質であることが望ましいのです。そういう意味での工業的な農業はより高度な栽培技術を必要としますが、そこから生み出される農産物の品質は非常に優れ、生産効率も良く儲かる農業となり得ます。

うちの場合、収穫物の規格割合は95%がA、5%がBでCと規格外に相当するものは収穫する時点で圃場廃棄します。高い栽培技術を自負して品質の良い農産物を出荷している身としては、生産者が規格の厳しさを訴えることに強烈な違和感を覚えます。

誤解を恐れずに申し上げると、「栽培に失敗してB品だらけになっちゃった。でも見た目がちょっと悪いだけで味は同じ!でもA品よりかなり安い…規格ってそんな重要なの?!」という経緯が透けて見えるのです。

大きく割れてしまった玉。これでも確かに食べられるのだが…

生産者が現行の規格に一石を投じるということは、生産段階で農産物のA品割合が低いということを意味しています。A品割合が9割を超えているような農家は、規格の緩和云々について態々言及すること自体がリソースの無駄でしかありません。しかしその声が消費者に届くと、日本の「もったいない文化」も相まって礼賛を受けるのです。

技術不足を棚に上げず研鑽に励むのではなく、現状のルールにケチをつけ技術ある農家に向けたルサンチマンを垂れ流しながら、食料需給の構造を等閑視してその場しのぎの問題提起。栽培の失敗が不可抗力でない限りは、規格の重要性を疑う行為は自分がヘタクソだと吐露しているに等しいとさえ思えてしまうのです。

農産物が不足し今にも飢餓が発生せんとする状況下でない限り、あまつさえ物価高や肥料の高騰、農家不足や食糧不足といった最もらしい理由を並べて規格のあるべき姿を問うというのは愚の骨頂、恥ずべき行為であると私は思います。


農産物の「規格」はとても重要で、必要です。

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