なぜ儲からない農業を保護するのか、談。
日本の農業が国内総生産(GDP)に占める割合は大体1%くらい。そんな弱小産業をなぜ存続させるのだろう?これは単純で、食糧難の凄惨さを省みるとよくわかる。食糧難といえば、1916年から第一次世界大戦下のドイツが「カブラの冬」という飢饉状態に陥ったことがある。
開戦したロシア等からの食料輸入が途絶し、イギリスと自国の海上封鎖もあり深刻な食料不足でドイツ全域の約76万人(1915-1918)が餓死したという。首都ベルリンでさえジャガイモ粉が混ぜられたパンや水で薄められた牛乳が販売され、ついには主に飼料用に用いられていたカブラ(=西洋カブ)が主食となり、町ではカラスやスズメの肉が売られる有様に。
また、豚に与える飼料用のジャガイモを人間の食卓に回せという主張によって大量の豚が屠畜されたものの、それによって得た食料は僅かだっただけでなく戦時中で保存もままならない豚肉は腐っていくのみだったという。労働力は消え、肥料の原料は火薬に使われますます深刻化する食料難に対する不満は、やがて自給率の向上と広域経済圏の確立を謳うアドルフ・ヒトラーの台頭を許す温床となる。
世界一の農業国と言われるアメリカや農業大国フランス、最先端技術のオランダ等の先進国でさえ農業のGDPに占める割合は1割に遠く及ばない。それでも所得補償や直接支払いや補助金で農業を守るのは、人間は食料がないと生きていけないからだと思う。2度の世界大戦を経て各国は足りなくなったら輸入すれば良いという考えを改めさせられたのではないだろうか。日本とてその例外ではないはず。誰も薄い牛乳なんて飲みたくない。
特に日常的に食される農作物は需給バランスが乱れた時に激しく価格が変動してしまう性質がある。当たり前が当たり前でなくなった時、どのような事態になるかは語るべくもない。だから多めに作って安全余裕を設ける。当然ダブつくので価格は際限なく下がってしまうけれど、ここで直接補償の出番。当たり前を当たり前のままにするためにみんなのお金(税金)で助け”合う”。
多めに作って「豊作」か「通常作」にして、余ったら捨てる。無駄かも知れないけれど、フードロスをある程度許容しないと今回の米騒動みたいに「足りないのでは」という不安がどこまでも膨らんでしまう。メディアに不安を煽られる時間、虫が沸いた買い溜め米を捨てる時間、備蓄米を買うために並ぶ時間、「不足」による社会的混乱の方が余程面倒。もちろん、アメリカやEUみたいにだぶついた分を海外に融通できれば良いけれど課題はたくさん。
農家への直接補償もただ一律にあげてしまうと「良いものを作ろう」「たくさん作るぞ」といったやる気を削いでしまうかも。ダブついた時など流動的に配分するのが理想だけど、再生産可能な「最低価格」の選定はとても難しい。まあどちらにしろ、先進国の農業はその他の産業の稼ぎによって支えられているし、農業が自国で存続していることで国民全体に食料安全保障をもたらしていると考えると平和的に済ませられるのではないだろうか。
もちろん、食料の輸出入による豊かな食環境は大切にしていくべきだと思う。ワインやチーズは絶品だし、マックのハンバーガーは美味い。食べ物が原因で戦争は起こるけれど、国際的な食料融通で平和にもなるはず。私たちは宇宙に浮かぶ湿った岩石に暮らす「人類」というチーム。仲良くやろう。
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