安全と安心
農薬や遺伝子組み換え、食品添加物など、今日ほど「安全」「安心」に対する諸課題が取り沙汰される時運もこれまでなかったでしょう。
事実、今般のオーガニック志向や種々なる自然栽培の勃興から鑑みても、食品に対する安全・安心への関心はかつてないほどに高まっているように思われます。ただ、よくこれらの「安全」と「安心」が併せて論じられることが多いものの、両者は似て非なる意味内容を持つことに留意したいところです。
端的に述べるのならば、技術や環境的側面から担保される客観的な「安全」を限りなく高めることによって、個々の主観に依る「安心」の保証に努める、と言ったところでしょうか。無論、このような単純な図式で片付くものではありませんが、今回はこの論理をベースとして安全と安心の複雑な関係性を、農家らしく農薬問題に例えて論考していきたいと思います。
農薬の目的は
安全・安心を踏まえて農薬に係る諸般の規制ないし認可登録制度を例にとるならば、その目的は科学的見地に基づいて人々にとって安全な農作物を安定して供給していくことであるのは間違いないと思います。
しかしその目的の極北にはその技術を以て安全性を追求するというよりは、それによって人々が客観的に「安全」であると認識し、主観的に「安心」して農作物を手にとることのできるような社会の実現を目指すものではないでしょうか。
ところで、「安心」とは辞書を引くと「気に掛かることがなく、またはなくなって、心が安らかなこと。物事が安全・完全で、人に不安を感じさせないこと」とあります。
農薬が大々的に使用され始めた1960年頃から10数年後には、毒性の強い農薬使用による魚介類の大量死や残留農薬等が社会問題となりました。当時は正に農薬の安全性が客観的に疑われ、個々人が安心することのできない状況だったでしょう。
今般、科学技術の進歩によるより低量で卓効を示す成分の開発が進み、農薬はその使用方法を誤らない限りは限りなく人体や環境に安全なものとなりました。
「安心」するには
しかしそれだけで人々が「安らか」に農産物を手に入れられるわけではなく、農薬の使用に係る法律の制定や、実際に現場で扱う生産者の使用量・倍率の遵守など、制度的・社会的・倫理的な問題もクリアしなければ「安心」することはできません。これらが十全に守られ運用されていくことで初めて「安全」であり、「安心」することのできる下地ができると思います。
ただ、どれほど安全性を高めても、些細なことが気になってしまう神経質な方にとってはそもそも日々の不安から脱却することはできず、安らかに暮らすことは叶わないでしょう。
そうでない普通の方にとっても、ある程度の不安を持つことはそれらに関する危機・危険から身を守るための行動原理となる意味で極めて重要です。しかしながら、ある特定の危機・危険から過度な不安が喚起される場合に、それを回避するために過大なエネルギーを投入してしまうような事になると、かえってそれ以外の危機・危険に遭遇する可能性が高まり、当の本人が本来なすべき種々の事象を遂行することができなくなるという問題が生じかねません。
つまり、適度な不安を感じそれに対する回避行動を行うことは至極「合理的」である他方、特定の危機・危険のみに過度な不安を覚えることは、当の個人にとって「非合理的」に他ならないのです。こうしたある種神経質な個人にとっては、いかなる技術を以て安全性を担保したとしても、「安心」することは叶わないでしょう。
この様に、農薬はその科学的安全性を高め、種々の法制度で適切な運用に注力することで人々が「安心」して農作物を手にとることのできる状態を目指すものであるが、その「安心」は当該科学的・社会的な環境を整備するだけで達成されるものではありません。
それは、「安心」という概念はあくまで「主観的・心理的」なものであり、科学的・社会的に担保できるものではない、ということなのです。
個々人の心理というものは正に「ひとそれぞれ」であり、外部環境にもある程度影響されるとはいえ、生来持ち合わせた性格からどれほど科学的・社会的に環境を整えても安心できない人は存在するでしょう。
「安心」の構成要素
「農薬問題」に係る「安心」の構成要素には、2つの環境要因と1つの心的要因からなると言えます。環境要因は農薬そのものの科学的安全性などの「科学的環境要因」と、農薬使用に係る法制度やADI(1日摂取許容量)などの「社会的環境要因」に分類されます。
そして心的要因とは、それら2つの環境要素を与えられた上で安らかに、「安心」して農作物を選ぶことができるかどうかという「精神的な能力」を意味します。これはすなわち「安心を感じる強靭な心を持つ人は、例えば残留農薬が制限値ギリギリで検出された農産物も、定められた制度の範囲内として「安心」して食すことができるでしょうし、反対にそういった精神力を持たない人の場合、如何なる科学的社会的安全性が担保されようと、残留農薬がゼロでない限りは「不安」から逃れられないのです。
以上は安全の確保が、安心できる1つの条件になるということを示唆しています。しかし、私は「不安」を喚起する「安全」というものが存在すると考えています。
安全性が高まれば高まるほど、安心できなくなる。一見矛盾している様にも思えますが、今般の農薬問題に照合してみると分かりやすいと思います。
「安心」と「リスクの受容」
農薬は成分によって様々ですがある程度のリスクが一定以上存在しています。それと併せて考えるのが、農薬のなかった時代には虫害や病気などの発生リスクも当然にあります。この場合、人々はそのリスクの存在を否定することはできず、これらを受け入れる形になります。正しくリスクを把握することで、人々はリスクと「賢く付き合う」ことが可能となります。
その一方で、昨今の技術革新と法整備により、より高い水準の安全性が保障され、かつては食中毒や寄生虫などのリスクと上手く付き合う他なかったものが、当該リスクは極小化し、農薬のリスクも小さくなったと言えるでしょう。
これは大変喜ばしいことではありますが、問題は必ずしもそのリスクの存在を認めることが容易でなくなり、その結果そのリスクを受容することができなくなるというところが問題なのです。
故に人々は、極小化されたリスクのことは普段ほとんど気にかけなくなります。にもかかわらず、そのリスク自体は“ゼロ”ではないことは間違いなく、それをしばしば「知って」しまうという事態が生ずることとなるのです。
上述の様に元々そのリスクの存在を「受容」しているのであれば、「薬も過ぎれば毒となる」の諺の通りゼロリスクではないという情報は驚くに値しない至極当然のものでありますが、当該のリスクを受容せず、さながらそんなリスクは存在しないという思い違いをしている人々にとっては、「ゼロリスクではない」という情報は大きな心理的ストレスとなり得ます。
かくして、人々は大なる「不安」を覚えるに至るのです。そのような人々はそのリスクの発生確率が完璧にゼロになるまで安全対策を徹底的に尽くすべし、と理不尽な要求を業界や行政に突きつける様になります。
農薬問題が大きく取り沙汰されるようになった背景には、農薬の開発によってそれまでのリスク(=食中毒や寄生虫)が極小化されただけでなく、今般農薬の安全性がより高められ法整備が整ったが故に、かえって過剰に安全を求めてしまい、リスクをゼロにすべし、また無農薬にすべし、という理不尽な要求を述べ立ててしまうという、ある種病的な風潮が界隈を覆っているのではないかと考えます。
「安全・安心」の諸問題
農薬問題に限らず、医療や食品等の分野においてもそこに内在するリスクは今日限りなく小さくなっています。それにも関わらず「安全・安心」の問題がこれほどまでに人々の関心事となったことも現代をおいて他にないでしょう。この様な矛盾が起きていることが正に、安全になったが故にかえって不安が増長され、過度な安全を求めてしまうという風潮が社会を覆っていることの証左なのだと思います。
この風潮をどうにかできるかは、リスクを正しく受容することのできる覚悟を人々が獲得していかなければならないかもしれませんね。
今回はここまで。ありがとうございました。
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